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藤沢ルーザー

わたしは今、強敵へ果敢に挑んでいったものの手も足も出なかった敗者の気分を味わっている。ざらりとした潮風が届く藤沢駅のプラットホームで。

ぐうの音も出ないほどに叩きのめされることは、一目瞭然だった。それほどまでにあのきらびやかなオーラの威力はすさまじかったのだ。

「結婚は女の幸せ」「結婚は人生の墓場」、どちらも世間一般では非常に耳馴染みのある言葉だ。一体誰が言い始めたのだろう。発言には責任を持っていただきたい。

四年制大学を卒業して四年と半年、そろそろ結婚適齢期なんて単語がちらつく年齢になってしまった。その四年半をわたしは仕事に費やしてきた。過言ではないと言い切ってもいいほどだ。社会へ足を踏み入れたころは、「少なくとも三年は続けないと」と思ってしまう程度のモチベーションだったのに、あれよあれよという間に仕事の波に飲み込まれた。

恋愛にうつつを抜かしている余裕はなく、気がつけば結婚祝いや内祝いを贈った回数は両手で数え切れなくなっていた。オケージョン向けのドレスも何枚もクローゼットに収められている。

それでもいいと思っていた。一生を通して続けたい仕事かと問われれば疑問符はついてしまうが、仕事に夢中になれる瞬間があるからだ。我ながら入社以降の成長度はなかなかよいものだとも思っている。その結論をぶち破ったのは大学の同級生だった。それもほんの数時間前に。

ああ、纏わり付く空気が重たい。

「結婚することになったの」

白が映える今日の主役にそんな報告を受けたのは、日に日に潮の香りが強くなっていく七月の上旬のことだった。わたしは週末のみ藤沢の自宅から鵠沼海岸までジョギングをしている。この日は理由もなく「もう少し走ろう」と思い立ち、江ノ島までひたすら脚を動かした。予想通りも当然、江ノ島に着くころには太ももがパンパンになり、休憩を兼ねて腰越までのんびりと散歩することにした。やはり慣れぬことはするものではない。

腰越漁港では地元の漁師がシラス漁に精を出している。ああ、お昼はシラス丼にしよう、そんなことを考えながらスポーツドリンクで水分補給を行っていたとき、ジャージのポケットで携帯が震えていることに気がついた。受話器の向こう側から聞こえてきたのは懐かしいかつての級友の声で、「朝早くにごめんね」なんて言葉が第一声だった。

人生の門出のひとつであり、おめでたいことなのに、そしてつい先ほどきれいに飾り立てられた式場で頬を染めて嬉しそうに笑う二人も見てきたというのに、わたしの胸の内はぐるぐるとなんともいえない色の渦を巻いていた。

あの腰越での一件以来、どうもわたしの思考は難しい方へ難しい方へと進もうとする。もっと短絡的に考えてしまっていいはずなのだ。なぜわたしは今になって結婚というものに絡め取られそうになっているのだろうか。きれいに磨き上げたベージュ色のパンプスを一睨みして、コンコースへと続く階段に脚をかけた。

「ただいまー……」

一人暮らしを始めて約一年になるのだから声が返ってくるはずもないのに、律儀に挨拶をしている。藤沢で生まれ育ち、就職後も実家で暮らしていたのだが、両親が田舎での悠々自適な生活を送りたいと父の故郷である九州へと住居を移してしまった。それゆえわたしは一人で生活するには広すぎる家で徒然なるままに自活しているのである。

無意識に変化を拒んでいたのだろうか、毎日のように発し続けた「ただいま」もそのまま引き継がれた。「おかえり」がないだけで。今日もまた無音の空間に向かって挨拶を投げかけるだけ、しかしその予想は大きく裏切られる。銀色の髪とニヒルな笑みを持つ幼なじみによって。

「べっぴんさんのご帰還じゃ」

「ま、雅治、なんでいるの……?」

今年一番の驚きを与えたくせに、雅治は暢気にコーヒーを啜っている。「ねえ」、言いかけたわたしを遮ったのはさらに驚き、いや驚愕という方がしっくり来る言葉だった。

「なんで、ってが言うたんじゃろ、家に来てって」

記憶にない。

子どものころからお互いの家を頻繁に行き来していたし、両親が田舎に引っ込む際に「仮にも年頃の女の子なんだから、すぐに誰かが来られるようにするべきでしょう」などと合い鍵を雅治に手渡していたため、雅治が家にいること自体はそこまで不思議ではない。しかし記憶にないものはない。だからこその驚愕。

「こないだ電話してきたときにいうとったじゃろ。ま、酔っ払っとったけ、覚えとらんでもせんないな」

……今後はお酒を飲むときには携帯は近くに置かない方がいいかもしれない。

「まあまあ、せっかくきれいに着飾っとるんじゃけ、俺にも見せてくれん?」

雅治は笑みを崩さないまま、軽く頬杖をつく。特に断る理由もなく黒のコートを脱ぐと、「ええね、そのドレスよう似合うとる」だなんて社交辞令が聞こえてくる。「社交辞令」と思ってしまったのが表情に表れたのか、すぐさま「本心に決まっとるじゃろ」と返ってきた。

わたしは無言でやかんを火にかける。お気に入りの加賀棒茶でも飲んで、このもやもやした気持ちを落ち着けたかった。

、今日泊まっていってええ?」

突然の申し出に一瞬目を見開いて、すぐにマグカップから口を離す。

「うん、いいよ。明日日曜日だし」

別に雅治が泊まったところで取り立てて何かあるわけではない。部屋もたくさんある。それにわたしたちは二十年以上も幼なじみをやっているのだ。いまさらなんの間違いがあるというのか。

もう一口お茶を口に含んだところで、まだ自分がドレスを着たままだということに気がついた。うっかり汚してしまう前に脱いでしまわなければ、と立ち上がったところでぐらりと視界が歪む。披露宴で飲み過ぎてしまったのだろうか、身体が傾いていくのを余所に思考の片隅でぼんやりと考えていたが、その予想は誤りであることに気がついた。なぜならばわたしの身体が雅治の腕の中に収まっていたからである。

「まだ脱いだらいけん」

「はい?」

目の前には雅治の胸があり、その表情を窺うことはできない。

いきなり何を抜かすのだ、この男は。呆気にとられるわたしに構わずむき出しの腕をその白い指でつつつと辿り、満足げな表情を浮かべている。

「……雅治くん、くすぐったいので止めてください」

「なあ、結婚式どうじゃった?」

……人の話ぐらい聞けよ。

「挙式も披露宴もよかったよ。幸せそうで」

なんてありきたりな感想。自分の言葉の陳腐さに呆れる。

腕の上を散歩していた指は、いつの間にかワンピースの裾を弄んでいる。

「ほんまにそう思うとる?」

この男はいつだってわたしの胸中を見透かす。思えば隠し事ができたことなんて一度もない。

ぽつりぽつりと言葉がこぼれ落ちる。恋愛より仕事に熱中したいと思っていたこと。それがわたしにとっては正しいと数年間走り続けたこと。新婦にしか許されない純白のドレスを纏った友人が眩しかったこと。典型的な迷いの道、いや、森へ入ってしまったような気がすること。

「仕事に一生懸命になれる女がよう通る道じゃ」

「気づいたら二十代後半、周りは既婚者が増えて親は早よう結婚せられいうて急かすもんじゃけ、自分が進む道は本当にこれでいいのか迷ってしまうんじゃ」

なんて的確な考察。まさにわたしのことじゃないか。

「そういう岐路に立ってしまった女にはな、いくつかのルートがあるんよ」

「ルート?」

「一つめは、このまま仕事人生を突っ走る道」

「二つめは、結婚しようとがむしゃらになる道」

「三つめは、ただ迷いと焦りにつきまとわれただけで中途半端になってしまう道」

指折り数える雅治は、どこか楽しげだ。

「ただ、にはもう一つある」

「はい?」

狐につままれたような、というのはまさに今のわたしのことを言うのだろう。

「とりあえず、幼なじみとキスでもしてみる道」

……そんなバカな。

2012.01.09