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白猫の影踏み

フロアのそこかしこでカタカタと音がする。はじめは嫌だったこの音もすっかり耳に馴染んでしまった。時刻は午後二時十五分。朝から仕事が山積みで、正午を迎えてもパソコンに向かい合っていたわたしは、少し遅めのランチを取ろうと腰を浮かせた。

窓の向こうには真っ白な冬の寒空が広がっている。カーキ色のモッズコートを羽織り、顔を半分マフラーに埋めてエレベーターのボタンを押す。都心にそびえる超高層のこのビルは、エレベーターに乗るにも時間を要す。ひとつため息をついて、階表示のランプが右から左へ移るのを眺める。

21、20、19。19かあ、19のころに戻りたいな、あの頃は楽しかったな、ぼーっとそんなことを考えていると頭にちょっとした重みを感じた。見上げると二つ年上の社内人気ナンバーワンの先輩が、わたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。あーあ、髪の毛が。

、これから昼か?」

「はあ、仕事がなかなか終わらなかったので」

「ほう、俺もじゃ」

「仁王さんが? めずらしいこともあるものですね」

「年末近いからな」

ああ、そうだ、もうあと一月もしたら一年が終わるのだ。だから仕事をやっつけてもやっつけても片付かないんだった。ポーン、とエレベーターが目の前に到着したことを告げ、あまり軽くない脚を引きずって無人の箱に乗り込む。

お昼はコンビニでいいか、コート着て来ちゃったけど。心の中でつぶやいてオフィスワーカー向けのショップが軒を連ねる三階で降りようと指を伸ばしたら、左からにゅっと白い手が伸びてきて3を覆い隠し、1の文字を光らせた。

「……仁王さん」

「何を食べに行くかのう。、何が好きじゃったっけ?」

「いや、あの、わたしコンビニで済まそうと思ってたんですけど」

「たまには外の空気を吸わにゃいけんよ」

「……はあ」

ポーン。他に誰も乗ってくることなくエレベーターはエントランスロビーに到着した。

、何食べたい?」

……これは仁王さんとランチに行くってことだろうか。さっきから強制イベントの予感がひしひしとしている。

「……和食がいいです」

銀色のしっぽがひょこ、と揺れて「ええとこあるぜよ」と口角を持ち上げた。

この寒いのに仁王さんはジャケットに袖を通しただけだ。薄い灰色のシャツが余計に寒そうに見える。猫のように背中を丸めてわたしの横を長い足で歩く。

「仁王さん、なんでコート着てこなかったんですか? 風邪引きますよ」

「子どもは風の子っていうじゃろ」

「……どこからどう見たって大人じゃないですか」

「心はいつでも少年のつもりじゃ」

ああ言えばこう言う。ツーといえばカー。

「仁王少年はどんな子どもだったんですか?」

「テニスに打ち込むひたむきな少年じゃ」

「……へー」

「今『嘘くさい』とか思ったじゃろ」

「気のせいですよ」

「隠しても無駄じゃ」

また髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。

仁王さんが連れてきてくれたのは、ビルが建ち並ぶ都心にはあまりそぐわないお店だった。ランチタイムも終盤にさしかかっているからか、店内に人影は少ない。手渡されたメニューと真剣ににらめっこをしている仁王さんは、確かに少年かもしれない。

「……俺、和風おろしハンバーグ。は何にするんか?」

「かつ丼で」

「昼からがっつり行くのう」

「ビタミンを摂取してスタミナつけないと仕事こなせませんから」

「お前さん、もうちょっと仕事から頭切り離した方がええ」

反論しかけたわたしを遮るように店員さんを呼び、注文を済ませた先輩はずずっと熱いお茶をすすって再び口を開く。

「仕事のことばー考えとったら息詰まるじゃろ」

「だって、いつもいっぱいいっぱいで頭を切り換える余裕なんか無いですよ」

「たまには吐き出さにゃいけん。それすらしとらんじゃろ?」

「……それは否定できません」

吐き出す時間も無いくらい仕事に追われていて、吐き出す相手もいないのだ。それくらい、わたしは切羽詰まっている。

は腹に限界まで溜め込むから爆発してしまうんじゃ」

「頑張り続けるには呼吸してやらにゃ」

「肩から力抜いてやりんさい」

わたしはひとつ瞬きをして、その言葉をお茶と一緒に身体に染み渡らせた。

ほかほかと湯気の立つ料理が運ばれてきて、手を合わせて割り箸をぱきんと割る。

「で、今は何を腹に溜めとるん?」

「え?」

「外に出さんようにって頑張る必要はなか」

思わず顔を上げれば、琥珀色の眼とぶつかる。社会の楽しさも厳しさも知り得た色。

「ちょっとずつでええ。話してみんしゃい」

「……はい」

仁王さんが「たまには甘えも必要じゃ」と譲らなくてごちそうになってしまった。一歩外へ出れば、また冷たい冬の風が突き刺さってくる。仁王さんはやっぱり背中を丸めている。

「のう、。火曜と木曜の昼は空けといてくれんか?」

「え、何でですか?」

「呼吸せにゃいけん、いうたじゃろ」

「……それって、話を聞いてくれるってことですか」

「いわせるんか?」

あ、顔がちょっと赤い。…寒さのせいにしといてあげよう。

ぴゅう、と一段と冷たい風が吹いて仁王さんはさらに身体を小さくする。わたしは黙って紺と緑が踊るマフラー首から外し、無言で差し出した。

「巻いてくれんかのう」

「巻かせるんですか?」

ん、と白い首を出して腰をかがめた仁王さんにマフラーをぐるぐると巻き付ける。こういうところも子どもっぽいのかもしれない。

、さっきよりええ顔しとるぜよ」

また仁王さんは私の頭を撫でた。今度はぽふ、と音を立てて。

2010.11.21