目を閉じる 広がる碧は 海のもの

海と碧はどうしたって切り離せないものである。

初めて仁王に会ったのはいつだっただろうか。わたしの記憶が正しければ、それは中学校に進学する前の最後の日曜日である。

春の日差しが街を覆う昼下がり、わたしは海まで散歩に行くことにした。鍵だけを持って家を出ると、隣の家の前にドラえもんが描かれた引っ越し屋のトラックが停まっていた。そのときのわたしは「ふーん、誰か引っ越してきたんだ」くらいにしか思わず、トラックの横をすり抜けて海へと歩を進めた。

湘南の海は碧い。日本では海といえば沖縄で、一年中といっていいほど海を目当てに観光客が押し寄せる。沖縄の海は鮮やかなセルリアンブルーの絵の具をぶちまけたような、沖縄にしかそぐわない色をしている。対して湘南の海は、少し濃くて暗めの碧。わたしはこの色が好きだった。

夏には人に埋もれて目に付く面積が少ない海も、春の今はほとんどすべてを見渡すことが出来る。海に馴染みがあるこの小さな町の住人の中で、わたしはこの年代にしては、比較的海と時間を共にすることが多い人間だった。決まった時間、決まった曜日に行くのではなく、ふらっと海へ行っては砂浜へ座り込む。小学生のくせに、わたしはそんな生活を何年も続けていた。

朝に行けばマツダさん家のおじいちゃんがラジオ体操をしているから、並んで一緒に体操をする。夏になるとおじいちゃんは「すいかがあるから食べにおいで」とよく誘ってくれる。湘南は全国的に人気の街だけど、ここはマイナーなので地元民しか立ち寄らない。いわゆる穴場だ。昼から夜にかけては、人はまばらでたまに犬の散歩で立ち寄る人がいるくらいだった。

今日はまばらどころか人っ子一人いなかった。わたしは海を見渡すことが出来る岩に登って、足をぶらぶらと揺らす。そして海に向かって話し出す。はたから見たらただの危ないやつだとはわかっている。海が言葉を話せるわけがない。だけど、絶え間なく引いては寄せる波が相づちを打ってくれているように思えるのだ。だから海が好きだし、やめられない。ちゃんとわたしの相手をしてくれる。海はある種の麻薬だ。

ちゃん、帰るぜよ」

思いも寄らぬ自分を呼ぶ声にびくっと肩を揺らして振り向くと、銀色の髪を風になびかせて妙に大人びた表情を見せる少年がいた。

「誰?」

「今日からお隣さんじゃ」

「え、あ、、です」

「知っちょうよ」

ああ、そうだった、わたしの名前を呼んだのはこの人だった。この地では馴染みのない話し方をする。どこの方言だろうと心の中で首をひねる。

「あの、なんで、」

「お前さん家に挨拶に行ったら『うちにも同い年の子がいるの。っていうんだけど、あら、海でも行ったのかしら、もうご飯の時間なのに』っての」

時間にしてほんの数十秒しか話していないだろうに、ずいぶんお母さんの真似がうまい人だ。

「ほら、帰るぜよ」

差し出された手を握ると、少年もどき?のその人はにやっと笑みを浮かべて「俺は仁王雅治じゃ」と名を告げた。

ある程度の期待を持って始まった中学生活は、驚きの連続だった。仁王も同じ学校だったとか、仁王がものすごくテニスがうまいこととか、仁王によると「テニス部には化け物がたくさんいる」ことだとか。他にもいきなり長期にわたるお父さんの単身赴任が決まって、家がすかすかになったり。まるで梁と柱しかない建築初期の家だ。

お父さんは洗濯とか料理はさっぱりだから、一ヶ月のうち一週間はお母さんはお父さんのところへ行ってしまう。放っておくと家がとんでもないことになるかららしいけど、お母さんがお父さんのことが大好きで向かってるのは明白だ。お兄ちゃんは京都の大学へ進学して長いし、一ヶ月の四分の一、一年にすればまるまる三ヶ月もの間、私は一人だった。必然的に一人でいる時間が増えてしまい、家に帰っても話す相手がいないという孤独は、苦痛以外の何物でもなかった。

わたしは授業が終わってから夕飯を食べるまでの数時間を海と共にするようになった。家がからっぽの一週間を迎えると、その傾向は顕著になる。からっぽになった家のように心もからっぽにしてしまえるから。心をからっぽにすれば、寂しさもどこかへ行ってしまう。孤独は海に流してしまえばいい。そのときのわたしには、心を満たす必要性と方法を見いだすことは出来なかった。

最初の一週間が始まった日、私はまっすぐ家に帰ることをしなかった。「ただいま」といって何も返ってこないのが嫌だった。お母さんに「早く帰ってきて」といいたかった。いえなかった。口に出せない代わりに砂浜に文字を刻んだ。まるで「なかったことにしてあげるよ」とでもいうかのように、波がそれをかき消した。

……一瞬お母さんかと思ったなんていえない。ラケットバックを背負った仁王が、心なしか寂しげな目をして向かってくる。

「部活は?」

「とっくに終わっちょる」

「なんで? なんで来たの?」

「秘密じゃ」

「なんでここにいるって分かったの?」

「それも秘密じゃ」

仁王はわたしの口から矢継ぎ早に出てくる質問に一つ一つ答えてくれる。それはわたしの疑問を解決するには至っていないけれど。

、夕飯、食べに来んしゃい」

「え?」

「家、誰もおらんのじゃろ。母ちゃんが来いいうとる」

「……うん、お邪魔します」

わたしがなんと言ったって仁王はわたしを家に連れて行く。そんな気がしたから、家族の団欒に割り入ってしまうという申し訳なさを抱えつつ承諾した。海に「ばいばい、また明日」と告げて立ち上がろうとしたわたしの目は、およそテニス部とは思えない白く美しい手を見とめた。

「……」

「ほら、帰るぜよ」

一瞬の逡巡の後、差し出されたその手を握った。

それからというものの、仁王はちょくちょくわたしを迎えに海へ足を運ぶようになった。わたしの名前を呼んで、手を差し出す。その白くてテニスをやっている割には細い腕が、わたしを暗い海底から掬い上げてくれているような気がした。自然とわたしの中で仁王は「特別」になった。見いだすことが出来なかった、と思っていた心の満たし方とその必要性は、仁王が埋めてくれていのだ。仁王じゃなければ埋まらなかった。

仁王の女関係が派手だというのは、立海生なら誰でも知っているといっていいくらいの噂だ。当然それはわたしも嫌というほど耳にしていて、何度か仁王に真相を確かめてみようと思った。でも、あのにやりとした笑みで肯定されてしまったら。わたしはそれが怖かった。仁王はもう海に来てくれなくなるかもしれないような気がしたのだ。この関係が崩れ落ちる、砂の城を海が飲み込んでしまうような。だからわたしは仁王が遊び人なんていう噂は信じない。信じたくない。手を伸ばしてはいけない領域。空間。

わたしが仁王に抱いている「特別」な感情はただの独占欲なのか、それとも恋愛感情なのか区別が付かなかった。いや、意識的に区別をつけるということから目を反らしていた。ずるい自己防衛。この感情を表す名称がなんなのか、なんてとうに分かっていたのに。分かっていたから、怖かったのに。

仁王と海で待ち合わせをするようになって二年と五ヶ月になった。もう湘南は秋を迎える準備に入っている。やや雨が落ちてきそうな天候のせいか、今日の海には誰もいない。わたしと仁王の関係には特に変化がない。相も変わらず迎えに来る人と迎えを待つ人の関係。クラスメート。お隣さん。それ以上でもそれ以下でもない。はずだった。

少し肌寒さを感じるのも厭わず、ローファーと靴下を脱ぎ捨てて海に浸食されに行く。砂が脚を覆う感触、波が脚を打ち付ける感覚が心地よく、ざぶざぶと水平線に向かって脚を飲み込ませていく。入水自殺と見まがわれても仕方ないなあ、と回転が鈍い頭でぼんやりと思った。膝まで浸かった波はちゃぷちゃぷと音を立てている。なんとなく「もうちょっと浸かってみよう」、と一歩踏み出した。

!」

左腕がぎゅっと締め付けられて、身体が後方に傾く。わたしを引き戻したのはやっぱり仁王で、身体に回されたその腕の温度に安心感を抱いたのと同時に、抱きしめられているという事実に心臓の動きが速くなるのを感じた。

「何しとるんよ」

斜め上から耳に入る仁王の声は、少しだけ震えていた。

「何って……、海に浸かってただけだよ」

「死ぬ気か思った」

裸足で海に入ったわたしに対して、仁王は靴も靴下も履いたままで、制服のスラックスは裾から膝下まで色が変わってしまった。

「迎えに来たらが海入っとるし、奥まで行こうとするし」

「ごめん」

「もうこんなことしたらいけん」

腕にこめられた力が強くなる。脈が速くなる。

が波と触れてる部分から溶けて海に流される気がした」

「……」

「心臓に悪いぜよ。こんな深くまで入ったらいけん」

「それでも、溶ける前に仁王は迎えに来てくれるでしょ?」

「決まっとるじゃろ。……は、特別じゃ」

ゆらりと琥珀色の揺れる瞳が、薄い唇が降ってきて、一層速くなる鼓動を感じて、わたしはゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏に映ったのは、碧。

2009.09.12