家事に気を取られていて失敗した。起きてすぐに鞄にしまえばよかったのに。
中学受験で私立の立海大学附属中学校に進学した弟の赤也と違って、わたしは近所の公立中学へ通っている。中学生活もあと半年もない。ゆえにお決まりのものがついてくる。その名も高校受験。
これに関して赤也が「ねーちゃんは立海だろ!」と口を挟むのは目に見えている。その後一悶着起こるのも目に見えている。だから「進路調査用紙」なんてものには、一番といっていいくらい気を遣わなきゃいけなかったのに……!
昨日の夜、記入済みの用紙をお母さんに「判子を押しといて」と渡すまではよかった。お母さんは判子を押した用紙を書き置きと共に食卓に残して、今朝始発でお父さんと旅行に行ってしまった。赤也と家事一切すべてをわたしに押しつけて。
忙しいお父さんが有給を取れるのはすごく珍しいことで、お母さんとそろって浮かれているのはいいんだけど、浮かれすぎて赤也への対策を忘れているのはどうなのかな……。いや、すべてはわたしがその場で調査用紙を受け取らず、睡魔に負けてしまったのが敗因に違いない。
そしてわたしは今、調査用紙を握りつぶした目の前の悪魔をどう宥めるのが最良か、考えあぐねている。
赤也の機嫌が地に到達するまでの過程は本当に最悪だった。
わたしが起きる→朝ご飯とお弁当を作らなきゃ、洗濯しなきゃと慌てる→この時点で調査用紙の存在は忘却の彼方へ→赤也を起こす→のそのそと起き上がってきた赤也が調査用紙を発見し、機嫌がこれ以上ないくらい悪くなる
ああ、なんでわたしってこういう時に限って抜けてるんだろう……。弁解するわけではないけど、普段はもう少ししっかりしている。
「……ねーちゃん、なにこれ」
「えー、あー、その、(なんかうまいこと思いつけわたしの脳みそ!)」
「なんで立海じゃねーの」
わたしがとある県立高校を第一志望に据えて、併願の項目に立海大学附属高校と記入したのがひどく気に入らないらしい。
「あー、あのさ、立海もすごく魅力的だけど、わたしには県立ののんびりしてるのが合ってるっていうか、」
「チャリ通も出来るしさ、あと、ほら、併願は立海にするから、もし県立に落ちたら立海に行くし、ね?」
「あ、そうだ、赤也、朝練に遅れるよ、早くご飯食べなよ」
我ながら陳腐な言い訳だと思う。こんな言葉で赤也が納得するはずがないのに。しどろもどろなあたりにも説得力の無さが見え見えだ。
結局赤也が家を出るまでの数十分間、切原家は悪魔となったかわいい弟が放つどす黒いオーラに包まれていた。食卓にぽつんと置かれた調査用紙は少しだけしわが伸ばされているような気がした。
その日は赤也のことで頭がいっぱいで、先生の話はほとんど頭に入っていかなかった。受験生なのに。しわくちゃの用紙をみんなに見られるのが嫌で、放課後単身職員室へ持って行ったところ、担任は不審げな顔を隠さなかった。
「切原、これどうした?」
「いやー、その、うちの弟が」
「ああ、赤也だったっけ、弟。で、その弟がなんで?」
「それがですね、弟はわたしに立海に来て欲しいみたいで、紙を見たとたんにぐしゃっと」
「おまえん家ってほんとネタに事欠かないよな!」
……先生みたいに豪快に笑い飛ばせたらどんなに楽か。
両親は二泊三日で草津へ温泉に浸かりに行ったらしい。いいなあ、温泉……。娘が授業中ということも頭から飛んでしまうほど浮かれているのか、景色やら旅館やら観光地やらの写真が携帯にどんどん届く。
急遽取れた束の間の休みを満喫して欲しいから、メールの編集画面には「楽しんできてね、お土産もよろしく」とだけ打ち込んで、赤也のことは伝えずにおいた。ああ、赤也のことを考えると気が重い。胃の中に漬け物石を入れられた気分。
少しでも機嫌を直してもらおうと、夕飯はチキンカレーにした。常日頃から赤也が「母ちゃんのカレーもうまいけど、ねーちゃんのカレーはもっと好き」なんてかわいいことを抜かすからだ。もちろんゆで卵を添えることも忘れない。忘れるととんでもないことになるのは、十五年間生きてきて痛いほど理解している。
赤也の機嫌はすこぶる悪いだろう、けど一緒に食卓を囲みたい、そう思っておそるおそる「今日のご飯はカレーだよ。お腹ペコペコにして帰っておいで」と連絡を入れた。
でもよく考えたらわたし、悪いことしてないよね?悶々とした思いを抱えて受験生らしく勉強をしながら赤也の帰りを待つ。願わくばいつものように「ねーちゃん、ただいま!」って笑顔でドアを開けてくれればいいのだけど、さすがに今日という今日はそういうわけにはいかないだろう。得意なはずの化学も手に付かない。どうしたもんかと頭を抱えたそのとき、玄関で物音がして、わたしはリビングを飛び出した。お気に入りのシャーペンが床に転がったけど関係ない。ここは笑顔で迎えなければ!
「赤也お帰り!」
「……ただいま」
赤也は朝よりは少しだけ機嫌を直してくれたようだった。根に持つタイプだからなあ、赤也は。
上がり框に腰掛けて靴を脱ぐ赤也に「手洗っといで。夕飯出来てるから」と声を掛け、キッチンに足を向けた。本当は洗濯物も出しておいて欲しいところだけど、機嫌が悪いからやめておく。触らぬ神に祟りなし。無難に行こう、無難に。
しかし、赤也はことごとくわたしの「無難な手法で矛を収めてもらおう作戦」をぶち壊した。……壊滅的なネーミングセンスは気にしないでほしい。
「……ほんとに立海、来ねえの」
ガチャン。手からスプーンが滑り落ちてカレー皿にぶつかる。にんじんが跳ねる。
「……えっと、だからさ、朝もいったでしょ?」
「あんなんじゃ納得できねーし」
「そんなこといわれても……」
「本当はあんな理由じゃねーんだろ」
「え、違う、よ」
「…ごちそーさま。風呂入ってくる」
再び赤也のご機嫌ゲージは、左に振り切ってしまったようだ。普段赤也は怒っているとき、ガーガー叫んで暴れるタイプなのに、なぜだか今日は内面に押し込めて押し込めて、はらわたを煮え繰り返させているような感じだ。
わたしは赤也と同じ立海に通いたくないわけではない。だけど立海は私立だから、公立の何倍もお金が要る。赤也は中学から立海で、そのうえテニスはお金が掛かるスポーツだ。トップ選手なんて、若いうちから海外へ武者修行に行ったりする。それにもともとテニスは貴族のスポーツだし。
うちはものすごく裕福なわけではない、かといって赤也を私立に通わせているんだから貧乏なわけでもない。わたしが行きたいと熱望すれば、きっとお父さんたちは笑って「いいよ」といってくれる。ただ、もし何かあったら。それは、急にお父さんが倒れただとか、会社の経営状況が思わしくなく、お父さんの給料が少なくなるだとか。そんなときにわたしの学費で家計を圧迫していたら、赤也のテニス人生にも影響が出るかもしれない。両親には「子どもが気にすることじゃない」と一笑に付されることだろうけど。
赤也には思う存分テニスを楽しんでほしい。だからお金のことには気付かず、そして気付いたとしても気にしないでほしい。わたしが県立を希望するのは、そんな赤也への遠回しすぎる愛情なのだ。
この伝えられそうで伝えられない理由の処理方法を思いつかないまま、脱衣所へ向かう。きっと赤也はバスタオルも着替えも用意していないだろう。脱衣所のドアを押し開けると、赤也の部屋着が脱ぎ散らかされていた。……せめて洗濯機に入れて欲しい。
「赤也、着替えとタオル置いとくからね」
「……ねーちゃん、立海なら大学受験しなくていいじゃん」
「そうだね、それは立海のメリットだよね」
「なんかよく分かんねーけど、文系の学部も理系の学部もいっぱいある?から、どんな分野に興味を持っても大丈夫だって」
赤也は大学附属に通っているのに、いまいち大学のことを理解していないし、理解する気もない。それなのにこんなことを言い出すのは、わたしを立海に通わせたいがために情報を仕入れてきたのが理由だろう。おそらくよく話に出てくる柳くんあたりから。
情報処理能力が追いつかず、赤也には容量オーバーだったことだろう。それでも一生懸命聞いてきてくれたというのが感じられて、わたしのぺったんこの胸が温かくなったような気がした。
「あのね、赤也。立海に入るっていうのは、赤也やおねーちゃんの一存じゃ決められないの」
「……」
「先生とお父さん、お母さんとも相談しなきゃいけないから」
「……」
「それに、朝もいったけど絶対に県立に入れるって決まったわけじゃないしね」
「……」
「赤也、分かってくれる?」
「……分かった」
半透明のドアの向こうの赤也が寂しげで、なんだかシャワー直後の子犬のように小さく見える。ちょっと罪悪感に苛まれたわたしは、お風呂場のドアに手を掛けた。
「……何、一緒に入ってくれんの?」
「うん。背中流してあげる」
「ねーちゃん、カレーうまかった」
少しだけ元気を取り戻した背中に抱きついてわしゃわしゃと赤也の髪を撫でながら、本当の理由は赤也がプロになったときまで胸にしまっておこうと決めた。
2009.07.07