「初恋なんて、忘れた」
はぽつりと呟いた。
「えー、何それー、どういうことー?」
語尾を伸ばしながらケタケタ笑う友人の質問を、ゆっくりと目を伏せて口角を持ち上げることで交わす。なぜ女子という生き物は、恋バナとやらを愛して病まないのだろうか。そしてひとりひとりに詳細を求める。地獄か。
「初恋を忘れた」だなんて嘘だ。「忘れたことに」しているだけで、本当のところは「忘れたい」のだ。は初めての恋に破れて数年経った今でも「恋」というものに足を捕らわれている。
初恋の思い出は波となってたゆたい、を沈めようとする。いや、既に沈んでいるのだ。だから前に進めないのじゃないか。実に明瞭な理由。
別の子が「わたしの初恋は小学生の時でね、隣の席の子でサッカーがうまくて」なんてとろんとした目で話し始めたので、うまいことに向きかけていた水は逸れた。
そもそも誰だったっけ、こんな初恋の思い出なんていう生産性のない話を持ち出したのは。まったくもって腹立たしい。一日一回は恋についてああだこうだ話しているじゃないか。とはいえ、そんなことを顔に出すわけにもいかず、彼女はポーカーフェイスを形作る。そうやって人間は大人になっていくのだろう。
「初恋を忘れた」とはどういうことだろうか。
菅原はきれいに整った眉を歪めた。盗聴しているようでやや気が引けたが、数メートル先で展開されている会話にが混じっているとすれば、聞き耳を立てないわけにはいかない。
大抵の男が下ネタが好きなように、大抵の女はいわゆる恋バナが好きだ。ただし、という人間は、その「大抵」の枠に入らないようだ。高校三年で同じクラスになってから、とその周りの女子で繰り広げられている恋バナの様子をたびたび目にしてきてそう判断した。
自分の恋愛遍歴だとか、好みのタイプだとかについては、訊かれなければ絶対に口を割らない。は何に対してもクールな人間というわけではなかったが、恋愛となると空気がすっと冷えて、妙に冷めているような眼差しになるのが気になった。
一度気になってしまえば、あとは早い。ジェットコースターで下っているかのように、「気になる」は「好き」に変わった。
「好き」に変わってから早数ヶ月。クラスメイトという関係性に変化はない。とはいえ、進級当初と比較して軽口をたたき合えるくらいには仲良くなっている。普通に世間話だってする。ただ、好きだからもっといろいろな話をしてみたい。人間として、いたって普通の欲求。そこに降って湧いたの忘れた初恋の話。菅原は気になって仕方がなかった。
高校生なんて所詮この世に生を受けて十数年しか存在していないのだ。初恋を忘れるほど激しい恋愛をしたとか、数を重ねたなんてことは考えにくい。あの恋愛に淡泊そうなが男をとっかえひっかえしていることこそ、あり得なかった。そんな浮ついた恋愛と彼女を結びつけるのは、とてつもなく難儀なことだ。
「……おい、スガ。今のお前には爽やかさが一欠片もないぞ」
「そんなこといわれても」
大地、頼むから蔑むような目で俺を見ないでくれ。菅原はひっそりとため息を吐く。
「ここで爽やかに訊けたら苦労しないよ」
「爽やか君の名が廃るな」
さっきと言ってることが矛盾してない、それ?
机に顎を乗せての方へそっと視線を投げる。既に初恋の話は終わっていて、きのこの山かたけのこの里か、について盛り上がっている。ふーん、はたけのこ派か。
昼休みが終わるまであと二十分。今日は燦々と日光が降り注いでいるせいもあってとても暑く、は登校中に買ってきた烏龍茶をお昼前に飲みきってしまっていた。喉の渇きを我慢しきれず、百円玉を握りしめて体育館近くの自販機へ一直線。階段を一段飛ばしで駆け下りていたら、頭上から声が振ってきた。
「こらー、女の子がそんな豪快な下り方したらだめだろー」
菅原がひらひらと手を振っている。
「あれ、見られてた?」
「うん、ばっちり見てた」
「誰もいないと思ったからやったんだけどな」
「残念でした」
まさか小学生のような行為を目撃されるとは。パンツ見えてないといいけど、なんて内心焦り、は意味もなくスカートの後ろ側を抑える。
「パンツは見えてないから大丈夫だよ」
心を見透かされたかのようで、の声はうわずる。
「ざ、残念でした?」
「、なんで疑問系なんだよー?」
こんな話題でも菅原の笑顔は爽やかで眩しい。そりゃあ誰彼構わずモテるわけだ。は内心腕組みをして頷く。
菅原はといえば、偶然を装って声をかけた。追いかけてきたと知られたら、気持ち悪がられそうな気がして。が「自販機に行く」と席を立ってから数秒後に、澤村が目配せしつつ「行ってこい」と口だけ動かしてきたので、菅原はとても気の利く主将に感謝した。
不審に思われない程度に早歩きで教室を出て、階段の踊り場に立ったらが階段を駆け下りていた。菅原の目には、子どものように楽しそうな顔をして階段を飛び抜かしていたり、見られたことに舌をぺろっと出すがやけに眩しく映った。
ピー、ガコン。ミルクティーを吐き出した自販機が鈍い音を立てる。ペットボトルを取り出そうと腰をかがめると、横でどれにしようか迷うのスカートがはためいて、慌てて目を逸らす。チャリン、と音を立てて百円玉を差し込んだの手が止まった。
「……値上げになったの忘れてた」
世間の流れに逆らえず、ここ烏野高校の自販機でも商品が十円値上がりになった。うっかりしていたのか、二人の視線の先には「100」のデジタル表示。
「十円くらい出すよ」
「え、いいよ、我慢する」
「いいって」
「……ありがとう。あとで返すね」
レモネードのボタンを押すは、なおも申し訳なさそうな表情を浮かべている。義理堅いにも程がある。菅原は独りごちた。
そばにある木製のベンチに腰掛ける。年季が入っているからか、座った瞬間にぎしりと音を立て、それが情事を彷彿させて菅原は一人赤面した。いくら爽やかだと言われようが、健全な男子高校生。この光景は、毒だ。
とはいえ、せっかくと二人きりなのを無駄にするわけにはいかない。桃色の欲望を頭の隅に追いやり、たわいのない会話を重ねた。それだけでも充足感は得られた。熱いのは、太陽のせいか、彼女のせいか。ざっと風が吹くのと同時に、はたとあることが脳内を掠めた。の「忘れた初恋」。
「気を悪くしたらごめん。……『初恋を忘れた』って何?」
は一瞬表情を曇らせたが、「高校に入ってからは誰にも言ったことはなかったんだけど、スガになら話してもいいかもしれない」、と真相を明かしてくれた。中学生のとき、二年以上も片思いしていた相手にこっぴどく振られたことを。
「別にね、わたしのこと好きじゃなかったんだって。でもからかったらおもしろそうだからわざと期待させるようなことをしてたんだって」
あれだけ気になっていたのに、いざ訊いてみたら後悔した。その内容ではなく、に悲しそうな表情をさせてしまったことを。口許は笑っているけど、目と下がった眉がすべてを物語っている。
「わたしバカだから目論見を見抜けなくてさ、……告白したら『本気にしてんじゃねえよ』って鼻で笑われちゃった」
「ごめん、そんなこと思い出させちゃって。もういいよ」
「だから、忘れたっていうことにしたくて。要は初恋を忘れたいんだよね」
いい加減引きずるのは止めたいんだけどね。薄く笑ってレモネードを口に含んだの横顔が造形のように美しく、菅原は思わず目を奪われた。だからかもしれない。自分の口から、天地がひっくり返っても口にしないような言葉が飛び出てしまったのは。
「もう一回、正しい初恋をしたらいいよ」
「どういう意味?」
「俺と、初恋をしてくれない?」
ペットボトルから水滴がしたたり落ちる。の手から飲みかけのレモネードが落下する。零れ出たレモネードに日光が反射する。なんてことのない一連の流れが妙に青くさく感じられた。
「か、考えてみる」
あのクールなはどこへ行ったのか。 真っ赤な顔で慌ててペットボトルを拾い上げる彼女には、恋愛への冷淡さは微塵もなかった。
2014.05.19