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週末を明日に控えた金曜日の今日、23時55分。の恋人は、のぞみ133号から岡山駅22番ホームに降り立つ。
に岡山転勤の辞令が下ったのは2年8ヶ月前のことだった。東京にオフィスを構える本社は各地に支社を設置しており、近畿は大阪、東海は名古屋、九州には福岡といかにもよくあるパターンだった。
そのため、社内では次は北海道か中国地方じゃないかとまことしやかにささやかれていた。てっきり中国地方最大の都市・広島に支社が増えるのだろうと思っていたは、ひとり上司から会議室に呼び出しを受け、度肝を抜かれた。
「岡山支社を設立することになった」
「うちの部署からは、俺とが立ち上げメンバーとして指名された」
は必死で脳をフル回転させるが、とても理解が追いつかない。
「えっと、なんで岡山で、なんでわたしなのでしょうか……」
「いろいろあるけど、社長が岡山出身で故郷の経済発展に寄与したいんだと」
そこは納得。ではなぜ自分なのか。確かに社長と同じく岡山の出身だけど、まさか。
「新たな支社を立ち上げるには、創設メンバーにそれなりのスキルが求められる。のこの数年の成長ぶりと、……岡山出身が理由らしいよ。できれば地元の人間に協力してほしいと」
自分の努力を認められたのは嬉しい。しかし地元民だからって無茶苦茶だし、素直に喜べない。は複雑な表情を浮かべた。
「もちろん他にも候補はいたけど、残念ながらこういうとき独身に白羽の矢が立つのが世の常だな」
黙り込んでしまったに上司は「独身にだって選択する自由はあっていいはずだけどな」と気をつかってくれるが、所詮自分たちは会社員。命令に抗うことは到底許されない。
「気が進まないのはわかるよ。俺はもう腹くくったけど、そんな簡単にいくもんじゃないしね」
「……」
「どうしても嫌なら上にかけあってみるから。なんとかなるかもしれないし」
頭ぐちゃぐちゃだろうし、しばらくここにいていいよ。そう言い残して会議室を後にする上司を見送り、は大きく息を吐いた。
岡山には両親、旧友がいるし、頻繁に会えるようになるのはいいことだ。高校卒業までの18年間を過ごした地を懐かしく思うこともしばしばある。水面がきらめく旭川、昔ながらの奉還町商店街、観光客にも人気の日本三大名園・岡山後楽園や、市民のソウルフードであるキムラヤのバナナクリームロール。故郷を離れて久しいが、いつでも鮮明に思い出せる。
しかしそれとこれとは話が別だ。には東京の大学で出会った黒尾鉄朗という恋人がいる。自分より精神的に大人で優しく、たまに少年のような表情を見せる黒尾が大好きで、何年も仲睦まじく交際を続けてきた。まだ口にしたことはないが、おそらく互いに結婚も視野に入れている。その鉄朗と離れ離れになる?そんなの嫌だ。
「どうしよう……」
ニヒルな笑みがトレードマークともいえる黒尾の姿を思い浮かべ、は机に突っ伏した。
「、なんか元気なくね?」
その日の夜、仕事を終えて部屋を訪れたを迎えるなり異変を察知した黒尾は、ひとまずソファに腰掛けるように促した。けれども、微動だにせず立ち尽くしたままのを見やり、自身の目を丸くした。泣いている。
「? どうした?」
「鉄朗……」
堰を切ったように涙が溢れ、は黒尾の胸に顔を押し付けて事の顛末を語った。
黒尾はただひたすら子どものように泣きじゃくるの頭を撫で、震える小さな肩を抱きしめた。自分も泣きたくなる気持ちを必死でこらえる。
「離れたくない……」
「うん」
「でもわたしが拒否したら、他の人が行かなきゃいけなくなっちゃう」
「うん」
「誰かが行かなきゃいけないし」
「うん」
「わたしに期待してくれている会社に応えたい気持ちもある」
「うん」
さんざん泣いて少し落ち着きを取り戻したがポツリポツリと吐き出す言葉を聴き、努めて冷静に優しい声色で相槌を打つ。責任感の強いのことだ。きっとここに来るまでの数時間悩みに悩んだのだろう。つらいのは俺じゃない、だ。
もし別れを切り出されたら。黒尾は最悪の結末も覚悟して次の言葉を待つ。
「だから、ちょっと頑張ってくる」
「うん」
「あの、それで、わがままなんだけど」
「うん」
「東京で待っててくれる?」
「当たり前デショ」
少し冷たい風が吹く20時15分。無事に仕事を終えて黒色のスーツケースとともに東京駅の15番ホームに歩を進め、岡山へ向かう最終の新幹線を待つ。黒尾は電光掲示板の「のぞみ133号」の文字を見つめながら、が決意を打ち明けた日からこれまでのことを思い返していた。
多少涙もろいところがあるは、やはり東京を発つ日もその目に涙が光っていたが、以降黒尾の前で泣くことはなかった。しかし、それはあくまでも黒尾の前でというだけで、寂しがりやのは幾度となく枕を涙で濡らしたのだろう。
黒尾も黒尾で何度「に会いてえな……」とつぶやいたか、細く柔らかな体を抱きしめたくなったかわからない。
いくら大人とはいえ、東京−岡山間、鉄道でいうところの営業キロにして732.9キロの物理的な距離を埋めるのはたやすくない。時間なら片道3時間25分、お金なら16,600円。平均して数ヶ月に一度が精いっぱいだった。
黒尾が岡山を訪れれば、その次はが東京に戻って来る。なかなか会えないのだからと遠出をしたこともあるし、逆に家でゲームをしたり映画を見たりと、いわゆるおうちデートをしたこともある。ばかみたいに笑いあって酒を酌み交わした夜もあれば、互いの寂しさを埋めるように抱き合った夜もある。
遠距離恋愛というものは、はっきりいってきつい。気軽に仕事帰りに会うことも食事をすることもできないし、触れ合うこともままならない。とはいえが生まれ育った地を彼女の案内で回ったり、実家の両親に紹介してもらうなど、遠距離恋愛がなければもっと先のことだったかもしれない。遠距離恋愛も悪いことばかりではない。
方向幕にのぞみ133、岡山の文字が浮かぶ白い流線型がプラットフォームに滑りこみ、そこで黒尾の思考は途切れる。
20時30分発・のぞみ133号岡山行き。の転勤によりぐっと乗る機会が増えたのぞみ号は、もはや相棒のように思える。いや、数時間でのところへ運んでくれるのだから、さしずめスーパーマンか。
今一度手元の特急券に「東京→岡山」と書かれていることを確認し、黒尾は自由席車両の2号車に乗り込んだ。
在来線とは違い、金曜日とはいえ新幹線の終電は空いている。お盆休みなどの繁忙期を除けば、自由席でも問題なく席を確保できる。黒尾はお目当ての窓際に悠々席を占めた。
東海道新幹線は始発が早いし、週末に向かうなら土曜日に早起きする手もあるが、やはり少しでも長く一緒にいたい。その気持ちが黒尾を駆り立て、金曜日の終電に乗せる。そのためだいたい仕事での戦闘服・スーツのまま行くことになる。
一日をともにしたジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めながらスマートフォンの画面ロックを解除する。メッセージアプリを起動し、「予定通り新幹線乗った」と打ち込んだ。
事前にに伝えておいた時刻と寸分違わぬタイミングで、のぞみ133号は東京駅を出発した。あと3時間25分でに会える。
数分後、スマートフォンの振動がからのメッセージ受信を告げた。
「了解! ごはん食べたー?」
「駅ナカで寿司食ってきた」
打てば響くように返ってきた返事に、は魚好きの鉄朗らしいな、と思わず笑みをこぼした。
地元テレビ局のネコのようでネコではないキャラクターが「いいね!」と親指を立てるジェスチャーをしているスタンプを送信し、立て続けにメッセージもつける。
「じゃあまたあとで。いつもの改札で待ってるね。早く会いたいな!」
恋人のストレートな愛情表現を受け取った黒尾は、思わず口を覆った。
窓に映り込んだ自分の顔は、耳の先まで真っ赤なのであろう。外は暗く、色までははっきりしない。黒尾は今が夜であることに感謝した。
「骨抜きってこういうことをいうのかね」
心の中でつぶやき、黒尾は仕事の疲れを癒すべくそっとまぶたを下ろす。
岡山まで3時間以上かかるし、仮に寝入ってしまってもせいぜい新神戸に到着するころには起きられるだろう。しかし、久しぶりの岡山、そのうえが放ってきた言葉に気分は高揚し、小田原駅を通過してもなお睡魔が襲ってくることはなかった。
まもなく新大阪です。JR京都線、吹田・高槻方面−−
東海道新幹線の終点かつ山陽新幹線の起点に到着することを知らせるアナウンスで黒尾は目を覚ました。いつのまにか眠り込んでいたらしい。
新大阪を出れば、岡山までは1時間もかからない。なんとなく「今、新大阪」と伝えたい衝動を抑え、背筋を伸ばした。
同じころ、はそわそわと身支度を始めていた。黒尾が岡山駅に到着するのは23時55分。まだ時間に余裕はあるが、気持ちははやる一方だ。少し早いけどもう行こう。準備の手を早めた。
故郷に戻ってきてからは岡山駅にほど近いマンションで一人暮らしをしており、自転車を少し走らせれば実家にもすぐ顔を出せる。駅周辺はビルや大型電器店などのネオンが煌々と輝いていて、人混みも多いため夜でもさほど怖くはない。今日はとりわけにぎわいを見せる花の金曜日。人の間を縫うように、駅前の横断歩道を渡った。
浮き足立つような気分で東口の桃太郎像を通過し、新幹線乗換口につながるエスカレーターのステップに足をかける。普段の何倍も浮かれているのには、理由があった。なんといっても今日はビッグニュースがあるのだ。
Uターンして2年経ったころから、東京に戻らせてもらいたいと何度か異動願いを出していた。もちろん会社側の都合もあるから、そうすぐに叶うものではない。の強い希望、岡山支社での働きぶりや支社が軌道に乗ったことを考慮し、東京本社復帰が決まった。それはつい昨日のことで、に朗報をもたらしたのは、あの転勤の命を告げた上司だった。
「頑張ったもんな。彼氏と仲良くやれよ」
ニヤニヤ笑う上司は、間近でを見てきた人間の一人だ。仕事でもいつも助けてくれたし、復帰の件も裏でいろいろと手を尽くしてくれたであろうことは想像に難くない。はめいっぱいの感謝を込めて、「はい!」と元気よく答えた。
東京に帰れるって知ったら鉄朗はどんな顔をするかな、緩む頰を止められない。止められないけど変な人に思われるのは困る。慌てて周囲を見回し、気を引き締める。
駅構内には明らかな人待ち顔の人もいれば、飲み会帰りと思しきグループもいる。ここで今、自分と同じようにのぞみ133号に乗っている恋人、家族、友人といった大切な存在を待っている人はどれだけいるのだろう。
は彼らから視線を外し、スマートフォンをそっと撫でた。
離れ離れになってから、は事あるごとに黒尾に「好き」「ありがとう」と伝えるようにしていた。といっても元来照れ屋のを助けてくれたのは、紛れもなくスマートフォンだった。なかなか顔を合わせられないぶん素直に気持ちを伝えたほうがいい。何もいわないスマートフォンに背中を押され、指を滑らせた。もちろん会ったときには面と向かって口にしていたが、文明の利器のありがたみを存分に享受した2年8ヶ月だった。
何度もまだかな、まだかなと改札の先にある時計の針とにらめっこを続け、ようやく長針が11を指す。
まばらな人影の中に黒尾の姿を見とめ、は飛びつきたい気持ちでいっぱいになった。そして顔をほころばせながら改札をくぐり抜けてきた恋人に、いの一番にいうのだ。会いたかった、もうすぐずっと一緒にいられると。
2020.03.08