蝉時雨に沈む

八月上旬。夏真っ盛りだ。

容赦なく照りつける日差しとうだるような暑さに足取りが重くなる。赤葦は隣を歩くの「赤葦ぃ〜、コンビニ寄ってこう……。アイス買いたい」との誘いに一も二もなく賛同した。一刻も早く涼を取りたい。

本来であれば朝から晩まで部活の予定だったが、連日の猛暑もあってか、お昼過ぎで切り上げることになった。いうまでもなくこの時期の体育館は釜茹で地獄になる。窓や引き戸を開け放ったところで冷風なぞ入ってはこない。

昼休憩に夏期講習で学校にいるというに連絡してみると、「同じころに講習が終わるから一緒に帰ろう」と想定通りの返答があった。

それに続いた「うち寄っていかない? 借りてた本も返したいし」の弁に多少動揺したのは否めない。それでも努めて冷静に了承の意を伝えられたのは、スマートフォンという無機質な物体を通していたからだろう。

しかし梟谷学園高校バレー部のエース同様、無邪気で読めない部分もある彼女のことだから、たとえ自宅に恋人を招く行為であっても他意はなく、単純に本を返したいのかもしれない。

これまでもどちらかの家で二人きりになって肌を重ねることもあれば、キスさえしないこともあった。赤葦は過度な期待はやめておこうと小さく嘆息した。

一学年上のは夏休み前に「予備校の夏期講習だけでいいかなあ」と迷っていたものの、そこはさすが受験生というべきかどちらも参加することにしたらしい。「たまには一緒に帰れるかもね」なんて笑っていたけど、そう都合よくいかないもので夏休み中に学校で会うのは今日が初めてだ。

受験生のわりに日に焼けているような気がするのは、毎日学校に来ているからだろうか。白いブラウス、黒色のスカートという無彩色の制服との組み合わせがまぶしく映る。

夏制服姿のと肩を並べて歩ける機会は残りわずか。そう思うと妙に感傷的になってしまう。

冷房が効いて快適だった電車から降りて改札をくぐり、しばらくすると視界に青地に牛乳びんのロゴでおなじみのコンビニが目に入ってくる。

体育館とは逆に真夏のコンビニはオアシスどころか天国だ。おなじみのジングルに迎えられて店内に足を踏み入れると、火照った体からすっと熱が引いていく。

重かった足取りは一転、は水を得た魚のようにアイスがぎっしり詰まったショーケースに駆け寄り、赤葦を手招きする。

「赤葦何食べる?」

「アイスモナカあります?」

「あるよ。ミルクとー、チョコとー、小豆と抹茶」

レトロなフォントで彩られたアイスモナカのチョコレート味と小豆味を手にコンビニから一歩踏み出した瞬間、もう店内に引き返したくなる。思わずも赤葦も眉をひそめた。

「……頑張って歩きましょうか」

「……そうだね」

徒歩数分で灼熱地獄とも呼ぶべき炎天下から脱出し、の家に到着した。ちょっと夏は熱に関係する地獄が多すぎるのではないだろうか。

二人とも数分歩いただけとは思えないほど汗びっしょりで、すっかりシャツの色は変わっていた。リュックが密着していた背中が異様に熱い。

はせわしなく焦げ茶色のローファーを脱ぎ捨てると、「エアコンつけてくる!」と一目散に自室に駆け込んでいった。

当然靴は玄関にばらばらと散っていてとても褒められたものではないが、一刻も早く部屋を涼しくしようとの思いから出た行動なのだから、そう咎めることではないなと赤葦は彼女の靴をきっちりそろえ、自身のスニーカーを横に並べた。

いつの間に学校指定のハイソックスを脱いでいたのか、キッチンで麦茶をグラスに注ぐの足はむき出しになっていた。なんだかいたたまれない気持ちを覚え、赤葦はそっと視線を外す。

「ご家族はお留守ですか?」

「うん。親はどっちも仕事で、お姉ちゃんはサークルの合宿。だから気兼ねしなくていいよー」

心臓が少し跳ねたようなそんな錯覚を覚えたものの、何食わぬ顔でどうぞお構いなくなどと返せる自分はなかなかの役者だと内心笑みを浮かべる。伊達にポーカーフェイスなどといわれていない。

赤葦とが付き合い始めたのは、およそ半年前のことだ。自分でもベタなきっかけだとは重々承知しているが、彼女は二年次に件のバレー部エース・木兎光太郎のクラスメートで、赤葦が部活の用件で木兎を訪ねるうちに顔見知りとなり、徐々に惹かれていった。

年上らしく大人びた一面を見せたかと思えば、子どものようにくるくる変わる表情に目を奪われる。自分は不可思議で自由奔放なタイプの人に引き寄せられる習性でもあるのだろうか。脳裏に謎に包まれた生態のエースの姿がよぎった。

麦茶とアイスを乗せたおぼんを抱えての部屋のドアを開けると、ひんやりした空気に包まれる…はずだった。どちらかといえばむわっとしている。

「なんか涼しくないね?」

「そうですね。エアコンの設定温度下げてみましょうか」

室外機に直射日光が当たると放熱しづらくなり、エアコンの効きも悪くなると聞く。もしかしたらそのせいかもしれない。

リモコンのデジタル表示が26度を示したのを確認すると、二人はエアコン以外の方法で涼むべく麦茶とアイスモナカに舌鼓をうった。口の端にチョコレートアイスをつけてアイスモナカを頬張るは、まるでリスだ。赤葦は思わず目を細めた。

「あ、そうだ」

あっという間にアイスモナカを完食したは、両手をぱちんと合わせる古典的なアクションとともに今日の目的を思い出したようだ。

本棚から文庫本を取り出して、自分でつけていたのだろうブックカバーを外してから赤葦に手渡す。背表紙にあるのは「檸檬」の文字。

「ありがとう。『檸檬』以外もおもしろかった」

さんが純文学に興味を示すとは意外でした」

「もう高三ですからねー、そういうものも読んでみるんですー」

は自慢気にむんと胸を張る。

現代文の模試で梶井基次郎の『檸檬』の一節が出題され、全文読んでみたくなったらしい。そんな話を聞いて本を貸したのは、まだ梅雨も明けていない七月の頭だったか。

『檸檬』とタイトルがついているものの実際には短編集で、「さくっと読めると思いますよ」との言葉とともに手渡したのは記憶に新しい。

「こういう本を持ってるのって、すごく赤葦っぽい」

「純文学以外も読みますけどね」

「ところでさあ、やっぱり涼しくなってないよね?」

「なってませんね」

エアコンの温度を下げてからしばらく待ってみたものの、なかなか快適といえる状態にはならない。むしろ暑い。窓の外ではけたたましい蝉の鳴き声が響き渡る。

「なんで蝉の鳴き声って暑さを助長するんだろうね……」

「夏の風物詩だからじゃないですか」

「理由になってないと思う」

エアコンが全力で稼働してくれないと、現代日本の夏には到底太刀打ちできない。

は暑い……と呻いてごろりとフローリングの床に寝転んだ。だらけるを地で行っている。拭っても拭ってもじんわりと額に汗が浮かぶ。体育館ほどではないが、少々こたえる暑さだ。

「エアコン壊れたのかな……」

「可能性はありますね」

「今朝まではちゃんと動いてたのに」

恨めしくエアコンを見上げたところで、吹き出す風の温度が変わることはない。

気休めにすらならないが、リュックから取り出したタオルでを扇いでやる。サウナのスタッフになった気分だ。

「ねー赤葦、暑いついでになんか夏っぽい話してよ」

「怪談でいいですか?」

「いやだ」

「暑い暑いというから、涼しくなる話がいいかと思って」

そんな稲川淳二の怪談ナイト的なのは求めてない……とぶつぶつ文句をごねたはちらりと窓の外に目をやり、もったいぶった口ぶりで口火を切った。

「じゃあ、わたしが夏っぽい話をしてしんぜよう」

はゆっくりと体を起こし、麦茶をあおる。すでに氷は溶けきっていてグラスも汗だくだ。

なんとなく話の予想がつくが、ドヤ顔のが楽しそうなので先を促す。

「蝉の地上に出てからの命が一週間ってうそなんだって」

「知ってますよ」

「……さすがあかーしぃ〜」

「木兎さんみたいな言い方ですね」

「真似してみた」

なーんだ、知ってるのかとでもいいたげにやや不満げに口をとがらせ、はローテーブルに頬杖をついた。

さんはどこで知ったんですか?」

「ラジオ。こないだなんとなしにつけたら、小学生が昆虫を研究してる先生に本当なんですかーって質問してた」

「ああ、あのご長寿番組。子どものころ電話したことありますよ」

「え、すごい! どんな質問したの?」

「うそです」

の体はフローリングに舞い戻り、ぺたりとうつ伏せになった。身動きするたびに揺れるスカートが心臓に悪い。

「いじわる赤葦……」

さんのお褒めにあずかり光栄です」

「褒めてないし……」

斜め下からじとっとした視線が刺さる。そんな顔をしてもかわいいだけなんだけどな。無意識に頬が緩んだ。

「子孫を残すのが使命っていっても、大人になって地上に出てきたらすぐさま婚活しなきゃいけないってハードじゃない?」

「ハードってどういうふうに?」

「メスへのアピール手段が鳴き声だけってきつくない? それに鳴くのってすごく体力使うんだって」

「そうでしょうね。全身を震わせるんですし」

「それでやっと奥さんを捕まえたと思ったらすぐセックスだよ。息をつく暇もないじゃん」

人間もいろいろ大変だけど、蝉とか他の生きもののほうがよっぽど大変だよね。――同情しているのか、はたまた別のことを考えているのか。の表情からは読み取れない。

「ってことは、この鳴き声は蝉がセックスしようって誘ってるのか……」

「身も蓋もない言い方しないでくださいよ」

寝返りを打って背を向けたのスカートがほんの少しまくれ上がる。太ももをつたう汗に、ついその奥にあるものを想像してしまう。

やはり自分も健全な男子高校生であり、この暑さで脳みそがゆだっているに違いない。

「……虫といえばさ、ホソミイトトンボのセックスの体位ってハート型なんだって」

「そうなんですか」

「もうちょっと反応してくれても」

「……博識ですねとつっこむか、遠回しに誘われてると捉えて乗るか迷いました」

今この家には自分たち以外に人はいないのだし、単純に涼みたいのならばリビングに移動してエアコンをつければいい。わかりきったことである。

そのわかりきったことを実行しないのは、たとえ家人がいなくともプライベートとはいいきれない場で二人きりになるのはどこか憚られるからで、キス以上を求めるならなおさらだ。

そしてそのことを赤葦とはよく理解している。

今日は気まぐれな彼女に過度な期待をしてもよかった日だったらしい。

じっと小さな背中を見つめると、ふたたび寝返りを打ってこちらを向いたと目が合う。その目は情に濡れて光っていて、赤葦は先ほどの考えが確信に変わるのを実感した。

「乗ればいいと思う」

赤葦が覆いかぶさるように彼女の顔の横に両腕をつくと、きれいに上を向いた長いまつげが瞬いた。引き寄せられるように汗で湿った前髪を撫でてやると、は小さく息を吸って目を閉じた。

そっと合わさった唇も、ゆっくりと絡み合う舌も、上腕を掴んできた手もすべてが熱い。

顔を離すと髪の先から汗がぽたりと落ち、のブラウスの襟にまるく染みを作った。

「斬新な誘い方ですね」

「京治くんのお褒めにあずかり光栄です」

降りしきる蝉時雨はもう二人の耳には届かないし、そもそもの問題――エアコンの調子が悪いことはとうにどこかへ追いやられている。むしろと赤葦のわずかな隙間が孕む熱は高まるばかりだ。

赤葦は左手での胸元を彩る浅葱色のリボンを解きながら、満足気に口の端を持ち上げた彼女にもう一度唇を寄せた。

2020.10.03